Watch videos with subtitles in your language, upload your videos, create your own subtitles! Click here to learn more on "how to Dotsub"

Interview with Hiroshi HOSHINO, Part 1

0 (0 Likes / 0 Dislikes)
正確に言うと、3月9日の時は・・・ ええと、母親と、生きてたのね。母親と兄弟7人。 --7人ですか?-- ええ。 --けっこういましたですね。-- ええ。それでね、実際に家にいたのは母親と姉1人なんですよ。 で、戦争中の日本人の生活のね、がありますから、 兄2人は戦争に行ってました。 それから父親は、前の年ですから、ええと・・・ 44年の4月。4月に病気で死んでいるんです。 ですから、我が家はですね、3月10日の時には収入はまったく無しという状況ですね。 それで、姉はですね、1人が学徒動員で、鐘紡という繊維会社ですけども、 --その会社はどこでしたか?下町のほう?-- 墨田区の今でいう堤通という所ですが、 まあ鐘紡、化粧品だとか有名ですけども。 そのいわゆる本社ですね。本社工場。 そこの寮に動員されて、落下傘作りに動員されたのね。 それから弟は小学校の・・・5年か。4年か。 で、集団疎開で茨城県の・・・という所のお寺さんに、先生に引率されて疎開をしてたんです。 --それは昭和20年の秋のことですか?-- いや、19年の夏。 --ああ、そうそう。ごめんなさい。-- 19年の夏からですね。集団疎開ね。 それで私は中学2年ですね。あれは6月に中学2年で動員令が出たのかな。 で、実際に行ったのは8月。夏休みから、いわゆる軍需工場に。実業学校でしたから、即現場ですね。 それで、鋳物工場の電気炉。電気炉で鉄を熔解して、 それで、いろんな型のね、戦車のキャタピラの元になる、そういう、自動車で言えばタイヤみたいなものですけどね、それを作ってる工場でしたけど。 で、そこへ動員されて。それで、ですから、家に残っていたのは母親と2番目の姉ですね。 これは家にいると動員されちゃうんで、強制動員されちゃうんで、 で、前の大日本機械というモスリン工場の・・・に働きに行っていて、 それで私と3人きりになった。あとは全部外へ行っちゃっていて、家族は3人だけだったんですね。 それで3月10日の日は、その鐘紡に動員に行ってたの、これたしか土曜日だったと思うのですが、 自宅での外泊が許可されて、家へ泊まりに来たんです。 それで母親はまあ喜んで、なけなしのあずきね、これで茹であずきをこしらえてね。 私は全然覚えていなかったんですが、つい数年前ですよ、姉たち2人が話してくれたの。 で、それを作って。それでまあ姉が久しぶりに寮から帰ってきたって歓迎して、 家族、だから姉が2人と母親と私と、4人でお汁粉を食べて、 まあ、久しぶりの再会を喜び合うと。まあそういうことを9日の夕方にやったわけ。 そしてですね、まあその日は大変な風で。空襲だったら大変だねというふうに言い合いながら。 すぐもう警戒警報が出て、それでまあ灯火管制があって、明かりがね、ほとんどもう使えないという状況になって。 私に「寝ろ」と、「早く寝ちゃえ」と言うんで、着のみ着のままですから、鉄かぶとだけ取ってね。 それでゲートルを巻いたまんま床に入ったらね、すぐ空襲警報が解除になって、警戒警報だけ鳴った。 それでお袋が、一旦起こされて、それでまあ空襲警報が解除になったから、また寝ろということになって。 でもまだその時、数えで15ですから、まあ子供ですよね。 --何歳でしたか?星野さん。-- 15歳。だから中学2年ですね、当時の学制で。 それで、あの、いわゆる空襲警報が解除になったものだから、また私に寝ろと指図をして、 それで枕元に上着と、鉄かぶとと、かばんと、オーバーね、それを置いて、それで仮眠したんです。 そしたらすぐ起こされて。それで、「大変だ!」って言って母親から起こされて、それで雨戸を開けたらね、もう外は真っ赤。 で、これはだからかなり距離がありましたけど。しかし見渡す限り、真っ赤ですから。 隅田川の西側から、いわゆる東京湾に近いほうですね。それから城東区。この一帯が全部、真っ赤に燃えていて。 いわゆる今で言うと、初期の目印の焼夷弾ですね、M47が落とされた直後、ちょうど空襲警報が鳴った時ですから。 だから空襲警報前にもう焼夷弾が落ちた、落とされたんですね。 それで目印の大型焼夷弾を落として。 それで、私はそれを見て、これはもう普通じゃないと思って。今までの空襲の体験とは違うと。 で、母たちに声をかけて、私の造った防空壕、そこへ入れということで。 --自分で造ったのですか、防空壕を--  ええ。前の年にね。 あのね、これまた話すけど。最初ね、防空壕を造れという命令が出たのは、爆弾のね、爆風よけなんですよ。 だから木造家屋の家がありますよね、その家のところにこう、柵囲いをして、こっち側と、あと上と表側だけに土を入れて、というそういう防空壕だったんですね。 そしたら隣組から、「それじゃあ危ないから、防空壕、ちゃんとしたのを造りなさい」ということになって。 お袋、困っちゃって。男は私だけですから。 で、勤労動員に私が行くようになってから、11月の初空襲の時にまだ完成してなかったんですけど。 それで父親が植木道楽でね、まあ一介の労働者ですけど、植木道楽でけっこう庭が広かったものですから、 親父の作っていた植木を引っこ抜いて、そうしてそこへ、もうこのぐらい掘ると水が出てきちゃうんです、下町ですから。 0メートル地帯ですからね。ですから、このぐらい掘って、あとはもうつい立てをして、 それで親父が作っていた植木の棚ね、棚をどかして。それでラガン(?)っていうこんな厚いやつが一等上の棚になってるんですよ。 これを使って、それで屋根をつけて、それで団子型の防空壕を、子供だから4カ月かかった。 それで、だから11月でね、初空襲が24日でしょ。この時には三鷹の・・・工場がやられたんですが、 29日は下町がやられたんですよ。 --やはり軍需工場になるわけですか?-- これはね、軍需工場じゃなくて。天気が悪かったものですから、軍需工場ができないから、 帰りがけの市街地に焼夷弾を落としていった。 雨が降ってましてね。だから、その、墨田区の場合ですと、いわゆる中和小学校の脇、だから立川2丁目ですね、ここに焼夷弾がまとまって落ちて。 その次に横川。これは私の家から歩いたら、15分もあれば着いちゃう所ですが。 その2か所が焼夷弾の直撃が起きて。それで100人ぐらい死んだのかな。両方で。 それでその、そこへ母たちを入れて。初空襲の時ね。 で、ところが防空壕がね、屋根ができていないんです、まだ。 下はちゃんとできていたんですが。それでね、四幅(よの)っていう布団、掛布団、雨降ってますから、これを持ってきて、母と姉の2人にかぶせて。 それで、少ししのいでもらったんですよね。で、私はもう鉄をかぶって、鉄かぶとをかぶって。 --爆弾が落ちたら、その布団とか、それは役に立つと思っていましたか?-- ええとね、破片だったら助かりますね。破片だったら。それで、ちょうどそこに当たれば。 ところが、体に、爆弾が落ちたらもう小っちゃな破片がいっぱい飛びますからね。 ですから、もう助からない、正直。至近距離で落ちたらね。 だから遠くから落ちた場合の破片だとか、頭出してて、遠くから撃った小銃の弾がね、傾斜ですべって、命中しないと、いわゆる貫通しないと、いうふうになるんだと思う。 そういう現場を見たことはありませんけど。ということで、鉄をかぶって、・・・していたんですね。 だから、その時はだからまあ、初めての本格的な空襲ですから、空襲っていうのはそういうものだって初めて知った。 それでまあその後ね、3月10日以前にいくつか下町のね、いわゆる大日本機械、これは機関銃と小銃の弾を作ってた工場が、 家の前側と、これ労働者が5千人ぐらい、3交代。 それから当時、亀戸工場って言っていたんですが、今の墨田区の立花ですね、今は団地になっていますが、 ここもやっぱり5千名ぐらいの労働者が3交代。 ここに爆弾の攻撃がありましたね。これは怖くて、もう。忘れられないですけども。 「空襲だ!」って言ったらもう、「ギリギリギリ」っていう爆弾とね、音で。立てないんですよ。その恐ろしい音で。 だから這って。這って表へ飛び出して、防空壕に飛び込んだ。だから母がついてこれなかったんでしょう。 それで、その工場に爆弾が落ちるという攻撃はありましたけど。 3月10日を経験した後でしたら、そりゃたいしたことない空襲だったかもしれないけど、 その時は女子労働者さん、30数名。1個の爆弾ですよ、250キロかな。その爆弾で亡くなったんですね。寮に命中した。 そういうこともありましたけども。そして、まあそんなこと、何しろ毎晩のように空襲警報が鳴りますから、 攻撃を受けなくても、高射砲の音だとか、探照灯っていうね、 --空襲警報が鳴ったらすぐ、防空壕に行きましたか?いつも。-- いや、あの、あれですよ、最初、警戒警報が鳴るんですよ。 で、警戒警報が鳴って、空襲警報になると、まあ母親たちは防空壕へ入ってもらう、と。 私は男ですから、それで男は私1人ですから。よその家は皆お父さんが残って、私ぐらいの年齢は皆、壕に入っているわけですけど。 我が家は男おりませんから、私が出て、それで警防団の人たちと対話をしたり。 まあ、警防団のほうで私に仕事は与えませんけどね。 それで、たとえば「避難しろ」って言って駆け出してね、町内を駆けずり回るわけ。そういうのみんな警防団の人たちがね。 それで、その3月の10日の時は、さっきの話に戻りますけど、私が2度目に床に入って、起こされて、それで窓を開けたら、雨戸開けたらもう真っ赤だった。 で、母親と、その日はね、土曜日で、下の姉が動員先から帰ってきたの。だからその姉2人と母親を防空壕へ入れて、 それで私が表へ出て、そしたらもう、すぐですよ、家に前には避難民がね、両方から避難民来るわけ。 すると皆もう、火の中くぐってきたような人ですから。火傷した人がいる、 それと親子がはぐれちゃって、あれですね、「お母ちゃん、お母ちゃん」「母ちゃん、母ちゃん」って呼んで、何しろ必死になって駆け出してる親子、子供さんとか。 それから、子供の名前を叫びながら、立ち止まるわけにいかないわけですね、恐ろしくて。 それで、子供の名前を叫びながら、駆け出して逃げていく、と。そういう人たちがどっどっどっどっ。 それで怪我人がいたり、それから濠から姉さんたち出てもらって。それで水を持ってきて、水を飲ましてやったり。 ひどい火傷の人は、油って貴重品なんだけど油持ってきて、油を塗ってあげたり。そんなことをやってたの。 ・・・火は来ないだろうと思っていたけどね。そしたら町内の人が、私の母校、小学校ですけどね、そこに「火が移るぞ!」って。そういう警報の連絡をして。 そこへ焼夷弾が落ちたと思ったらね、一瞬ですから、学校の2階が見えるんですよ。そこをね、一瞬火が走るんです。 もう、ブーーッとね、こういう校舎がこういうふうに途中で曲がって、一瞬にしてブーーっと走って。 それでもう、窓ガラスが割れて、ボウーっと火が上がって。 それで、校庭がありますから、そこに避難民や、避難した人が持ってきた荷物があったんだと思うんですよ。 そこへ火が移っちゃった。それがすごい強風でしょ。で、私、北西の風ですから、その日、下にいましたからね、私の家は。 で、1軒隣、間に道路があって1軒あって、その隣は沼だったんですけど、軍需工場の拡張で埋め立てをしたいということがあったんですね。 それでね、そうだね、時間の測定はできないけど、何分も経たないうちにね、火の粉が。だんだんね、火の粉が。こんなでっかい火の粉が。 布団に火がついて、風で飛ばされて、それがね、飛んでくるわけですよ。ズーーッとね。 それで隣が二階家で。我が家は平屋なの。そこへドーンとぶつかるでしょ。それが私の家の屋根の上へブーンと落ちる。 だからそばへ近寄れないでしょ。それで裏側は片側に家があるから、家の陰へ隠れて、まあ近所の人が「死んじゃうぞ!」って言って救援に来てくれて、 家の裏の塀を壊してくれて。で、そこから逃げ道を造って裏へ逃げたんですよね。 で、そこから沼を埋めた原っぱへつながるわけですよ。 そのうちに隣の家が燃えだして、2階の・・・。で、今考えると馬鹿みたいなんだけど、私はバケツを持ってね、消しに行こうとしたの。 だから近所のお婆ちゃんたちがね、「そんなことしたら死んじゃうよ!」って、私のことを必死になって4、5人で押さえて。 それで、「お宅は女ばっかりなんだから、あんたが責任を持って避難してくれ」とかいうふうに、警防団から言われて。 それで今度は逃避行ですよ。 だからもう後は我が家が燃えちゃった後に、辿り着いて。 そしてまあ火の中を。これは本当に運が良くてね。 墨田区の一画が今の・・・という所がね、昔・・・だったの。そこがね、細長く焼け残ったんです。明治通りと東鉄との亀戸線の間がね、焼け残った。 それで僕らは明治通りを風上に向かって逃げたわけ。ほとんどの人は風下へ逃げた。亀戸のほうへね。 何でだろう、私はね、隅田川に、水に近づきたいと本能的なあれがあって。 それで、だから風上に逃げる人はそんなに数が多くないんですよ。他の方はおしくらまんじゅうみたいなものですけどね。 ところがこれ逃げてくと、左側は燃えてませんから。それで明治通りを火がね、道路を超えてこちらへ押し寄せてくるわけですよ。 そうするとね、焼けてないところへバーーっと飛び込むわけです。よその家だろうと何だろうと飛び込んで、それで風の方向が変わるの。 それで炎がそれると、また歩き出す。まあ駆け足ですけど。 まあそうやって逃げて、それで最後は・・・橋、これはね、早乙女さんとね、明治通りをはさんで反対側なんですよ。 早乙女さんは自分が勤労動員で行っていた、あれは何ていったかな、車両、汽車会社だったかな。何かの工場へ・・・に行った。 私は・・・精機という所へ。それがまあ、燃えちゃってますから、その手前の川の土手下。今、・・・通りというのは、あれは土手だったんですよ。 あれとね、3分の1ぐらい土手ですからね。それを政府があれだけ広い道路に変えたわけです。 土手下にもうそれ以上逃げることができなくて。それでそこに避難して、火が来たら川へ入ろうということで、姉たちを説得して。 だけど皆泳げないの。私だけなの。だけどそこしかないからね。そこへ入ったらもう生きてるなぁと思って。 で、そこで、そうね、どのぐらいいたのかね、小1時間いたかな。 何しろね、百花園っていう今でも有名な、東京都のいろんな花をね、管理してある、何ていうんだろう、植物園みたいなのがですね、そこに大きな生木がある。 生木があってね、熱であおられてバチバチバチバチ音がしている。 風が吹くとそれがね、バチバチバチバチ生木が燃えてバーーッと屋根のほうまで近づくわけだ。 だからお袋に、「あの家に火がついたらもう駄目だから、ここにいたら危ないから、川のほうに逃げろ」ということで言っていたんです。 そしたら突然、3時・・・

Video Details

Duration: 24 minutes and 9 seconds
Country: United States
Language: English
Genre: None
Views: 44
Posted by: japanairraids on Jul 14, 2013

Interview with Hiroshi HOSHINO, Part 1

Caption and Translate

    Sign In/Register for Dotsub above to caption this video.